大和屋 巌 遺作展

お知らせ

大和屋巌 × 宮城の水彩画家6人展の写真を公開しました

2018年9月、於 Artgallery 杜
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大和屋巌 × 宮城の水彩画家6人展 

『大和屋巌 × 大和屋先生と縁のある宮城の水彩画家6人展』
 志賀一男 柳澤怜 吉田利弘 鈴木智枝 越河芙佐江 松永弘

 2018年9月21(金)22(土)23(日)28(金)29(土)30(日)
 10:00~17:00 (9/30は16:00まで)

 小さな美術感 Artgallery 杜
   981-3101 仙台市泉区明石南2-5-5
   TEL 080-93333-0061
   HP https://artgallerymori.com

アートギャラリー杜(もり)のオーナー二見英成(ふたみひでしげ)先生は、1981年に杜の家造形研究会を発足し、造形広場「あそびの学校」の開催を始めた方です。
大和屋は杜の家造形研究会発足のお手伝いをし、「あそびの学校」や研究会の講師を務めさせていただきました。
大和屋の著作「風と水で遊ぶくふう」の中に、二見先生は「やまと凧」の命名者として登場しています。

看護と介護の3年間

言い訳にすぎませんが、「お詫び」の中の「諸般の事情」を説明させていただきます。

1.叔母達の引っ越し

父(巌)は上京後母と結婚する前まで、葛飾区青戸に住んでいました。
25年程前に祖母が亡くなって以来、青戸の家では巌の妹(洋子・幸子)が2人で生活していました。
この家の土地は借地で、平成28年3月の契約期限に返納予定なので、遺作展後半年で家を空っぽにしなくてはなりません。
「遺作展が終わったら手伝いますから、3人で片付けましょう」と叔母達と約束していました。
しかし下記の事情からほぼ私一人で60年ぶんの荷物を片付けることになりました。

父もその弟妹達も、とにかく物を捨てない方々なので、まず私の祖父母の遺品整理から始めました。(私も捨てられない性格です)
家の中には、たぶん普通では考えられない量の、和洋服・鞄・本・画材・レコードの山!
更に健康器具、古い炊飯器が6台、映写機2台、レコードプレーヤー2台、オープンリールテープレコーダー等出てくる!出てくる!!

残念ながら状態の良い物はほとんど無く、廃棄処分になりました。
それでも、新居に持ち込めないけど捨てきれない叔母達の服や本は、練馬の家に運び込んであります。
練馬では父の遺品整理も頓挫したままなので、片付けがまだまだ終わりません。

2.私がお手伝いすべき近親者が次々に病に見舞われる

幸子 遺作展開催中に、脱水症と栄養不良で入院
洋子 認知症で一人では生活できないため、認知症系グループホームに入居
幸子 脊柱管狭窄症発症と高血圧の悪化のため、ショートステイにて療養
幸子 青戸に帰宅、自宅療養
幸子 サービス付き高齢者住宅に入居
(ここで青戸の土地を返納)
夫  足首に蜂巣炎を起こし歩行困難、一ヶ月自宅療養
洋子 大腿骨骨折(以後車いす)
洋子 特別養護老人ホームに転居
義父 肝性脳症で入退院を繰り返す
義母 義父の不在により認知症悪化
本人 左膝半月板損傷、再生手術
洋子 全身性皮膚炎のため通院
洋子 高ナトリウム血症で入院
洋子 平成30年6月死亡(葬儀相続手続き全般を引き受ける)

3年間、一人回復する頃にはまた誰かが発症するという日々を繰り返していました。

3.本人手術

練馬と青戸の家の片付け・叔母の転居の手伝い・入院生活補助・通院介助・自宅介護一般を続けるうちに、私自身左膝が痛くて、杖なしでは歩けなくなりました。
だんだん曲げることができなくなり、椅子に座っていることもできなくなったので、流石に湿布だけでは治りそうも無いと思い、整形外科を受診。
MRI検査の結果、膝半月板がすり切れているとの診断でした。
縫合・再生手術を受けましたが、3ヶ月間松葉杖生活+3ヶ月間杖生活でとても不自由しました。
あと一ヶ月半程で術後1年になりますが、まだ階段昇降がぎくしゃくします。

4.自治会など

遺作展を開催した平成27年度は、1年間自宅マンションの自治会長のの任にありました。
とても忙しかったです。
息子が自閉症で、内職仕事程度しか働いていないため、以前から保護者会役員・自治会・NPO等の活動に頻繁に参加しています。
でもこの3年間は、引き受けたものの貢献できず、大変歯がゆい思いをしてきました。

5.そして現在

幸子さんは一人暮らしの環境が整いました。
故洋子さん関係の諸々が一段落しました。
義父の薬が決まって病状が落ち着くに伴い、義母の生活も安定しました。
夫も私もほぼ普通に歩けるようになりました。
大和屋巌遺作展の事後処理を頑張ります!

お詫び(2018年9月)

 遺作展終了から、3年以上の月日が過ぎてしまいました。
 諸般の事情により、皆様へのご挨拶ができませんでしたことを深くお詫び申しあげます。
 今月アートギャラリー杜(もり)にて開催の展覧会を機会に、やっと活動を再開いたしました。

 準備からご協力いただいた方々へのお礼・ご来訪いただいた方々へのご挨拶・お申し込みいただいた作品集の発送、など遺作展関係の事後処理を全て放置したままとなっています。
 もとより文章を書くことがとても苦手です。「きちんとお手紙を書かなくては!」と思うほどに全く筆が進まず、先送りし続けてしてしまいました。

 本当に申し訳ありませんでした。
 これから順次発送いたしますので、どうかあと少しお待ちいただきたくお願い申しあげます。
                                  2018/09/18 長田香織

遺作展終了 (2015年6月7日)

6月7日、おかげさまをもちまして無事に遺作展の開催を終了いたしました。
予想以上に多くのお客様のご来場を賜りました。
とり急ぎ簡略ではございますが、ご来場いただいた方、お祝いのメッセージをいただいた方、皆様に心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。

遺作展会場にて奇跡の出会い(2018.9.19加筆)

1.「ネパールのバラット君」

「ネパールのバラット君」というタイトルの人物画があります。(2005年作)
(HP遺作展>会場写真>1室-4左下、作品集:76頁-84)

奇遇にも、[バラット氏]と交友のある方がご来訪。
会場でご友人にに電話をかけてくださいました。そしてそのバラット氏から「おじいさんに頼まれてモデルをしたことがある」というお答えをいただきました。本当にご本人!
更に、たまたま近くにいらしたバラット夫人が、その日のうちに遺作展に足を運んでくださいました。

2.葛飾小学校卒業生-1

ショーケース展示品に、大和屋が昭和28年(1953)に担任した葛飾小学校3年1組の文集「竹馬」があります。
(HP遺作展>会場写真>葛飾区資料、HP資料>文章類>葛飾区資料>『竹馬』)

奇遇にも、展示ページの作者がご来訪、「これ、俺だ!」とおっしゃいました。
この方には会場にて文集をコピーして差し上げました。
『竹馬』『ひよこ(S31 2年1組)』のコピーをご希望の方がいらっしゃいましたらご連絡ください。お送りいたします。
他にも卒業生の方々には、お友達に連絡していただいたり、お友達を連れて度々ご来訪いただいたりしました。会場は時々同窓会状態となっていました。

3.葛飾小学校卒業生-2

小さい古い作品は、ファイルに収めて展示しました。
(HP遺作展>会場写真>スケッチファイル-2、作品集:98頁-154)

奇遇にも、「小学校時代に大和屋先生の家に遊びに行った」方がご来訪。
ファイルの中の人物画(画像準備中)を示し「これ、お母様ですね」とおっしゃいました。
……残念ながら私の母ではないのです。
私はこの時初めて、この作品の女性が、大和屋の最初の結婚相手であることを知りました。
遺作展2室に展示した作品『赤いドレス』のモデルも同じ方だと思います。
(HP遺作展>会場写真>2室ー2右から2番目の作品、作品集:101頁-161)

[美術の窓」6月号に記事を載せていただきました (2015年5月)

2015.5.20発売の「美術の窓」6月号(No.381)164・165ページ【PRE VIEW】に、遺作展の紹介記事を載せていただきました。
153ページには、作品集の広告も掲載していただきました。
編集部のご厚意で、作品集の画像データのホームページへの掲載をご了解いただきましたので、5月中にギャラリーの画像を入れ替える予定です。
改めて、生活の友社編集部に厚く御礼申し上げます。全くの素人に画集の作り方について一から教えていただき、いろいろなわがままに対応していただき、本当にお世話になりました。

作品解説を追加しました

生活の友社編集部のご厚意により、「美術の窓」及び「現代日本の美術」掲載時の作品解説を、そのまま使用させて頂きました。
特に高山淳様には度々お世話になり、深く感謝申し上げます。

遺作展会場について

大和屋は、昭和24(1949)年に日本水彩画会に入会して以来生涯関わり、
平成6(1994)年から4年間、理事長を務めさせていただきました。
この会の公募展「日本水彩展」が毎年6月1日~7日に上野で開催されます。
日本水彩展観覧のため上京なさるお客様に、父の遺作展にも足を延ばして
いただければ幸いと思い、両会場間を30分程で移動可能な会場を選びました。

また、昭和26(1951)年に上京、葛飾区本田梅田町(立石)や青戸に在住し、
昭和37(1962)年3月までの10年間、葛飾小学校に勤めておりました。
上京してすぐ葛飾区美術会の創立に関わり、理事を務めました。
「第1回葛飾区美術会展」のポスターには、父が絵と文字を手書きしています。(資料)

昭和36(1961)年に練馬区に転居し、終の棲家となりましたが、
所縁のある葛飾区にて遺作展を開催が決まり、父にも納得してもらえると思います。